個人サイト(ここ)に移転した

 こんにちは、なな太郎です。きょうは個人サイトを作りました。これまではしずかなインターネットという文章書き散らしサービスをつかっていました。いいところでした。最近紙にボールペンで書き散らしをすることがあるのですが、漢字は出てこないわ文字は汚いわ書き直しができないわ(これがデカくて一旦書いたらもう続きからしか書けないのです)で、もう思ったようにまったくいかなくて。最初はさいあくって感じでした。でも続けていったら、適当でいいんよとかいうテンションで書くようになって、そしたら書くのって別に頑張らなくてもいいなと思ったわけです。逆にこうしたほうがいいだろうというのをわかっていながらそうしないことを決めるということがなかなか面白いように感じてきてしまって、いまあらゆるものを破壊しようっていうそんな姿勢で物事を見ています。書いていて思ったのは、ちゃんとしたものを書こうとしているということ。小学校や中学校なら先生にまるをつけてもらうためにやらなくちゃいけませんでしたが、いまはそんなことないです。2000年代の個人サイト文化があったようですが僕はあんまり覚えていません。なんかだうんろー…いやなんかやり方をいろいろ調べていくなかでそういうサイトを見ていたなという感じで少し覚えています。  自分はブログを少しやっていたことがあって、2017年とか「君の名は。」ぐらいのときだったと思います。そのときは文章が書くのが苦痛でしたがなぜかやっていました。いまも文章を書くことは苦手です、小学生のころの行事の後の感想文かくのあったじゃないですか。あれ、いつも最後まで残っていました。何かを見ても「へー」って感じで感覚があるだけで別に思うこと?(文章として形になることのことでしょう)がありませんでした。思ったことを文章にしようとするのができないのです。そのあと時間が経って何かをやっていたとき、それはもういつだったか忘れましたが、考えるということをやめたら書けるようになりました。僕は記憶力がないので、1行書いたらもうその前のことを覚えていられないので整合性がとれなくなってしまうんですよね、いやじぶんでもわかってるんですいま流れがおかしすぎるということは。ただそこで思うのは”ちゃんとする”ということ。ちゃんとしたいって、できたらいいなって思うのですが、そうしていると、僕の場合は先にまったく進まなくなってしまうのです。覚えていられないし何も残っていない。そういう時間が続いていって、ああ何もなかったし何もできなかったなって思います。それがあるからこうやって書こうとしているわけで、書かないより書いたほうがいいので、もう整合性とか伝達性とかそういうのは後回しにしようって、ある種の諦めであり、新しい捉え方の開拓でもあるという感じでやっています。  きょう作ったこのサイトは、AIに細かく相談しながら作ってもらいました。プログラミングわかんないんで自分では作れません。でもAIに質問すれば作れます、これはめちゃすごいです。内省が趣味なのですが、これまじで「は?」って思われるのですがほんとでAIとずっと自分の意見に対して感想やアドバイスをもらい、AIの回答に「それ違くない?」とか言って反することを言ったりするということをよくやっています。  2000年代の個人サイトと2025年のnoteを読んだとき、個人の文章の文体が違いすぎてやっぱ昔の個人サイトはいいなあと思ってしまいます。超個人的なことって、やっぱり読んでいて楽しいです。最近はそれこそ2000年発売のコンデジを調べているときにそういう個人サイトがでてきておもろってなりました。今の人のふつうの人の記事って、なんかみんな似てるんですよね。そんなこと言うといやお前は子供みたいな文章だなって言われると思うのですがそうだと思います。あとこういう書き方以外だと、いろんな装飾を削ぎ落とし、ほんとうに必要な言葉だけを残した極限的な文章(削ぎ落としたなかに、削ぎ落としたものと必要な言葉との調和があって生まれる意味合いもあると思います。それが失われることによって新たに喪失感という意味が追加され、ニュートラルのようで冷たい文章が出来上がるのです。冷たくて落ち着くのです。)そういう文章もすきです。  これはかつての再現ではなく、いまの技術と僕の精神状態での視点による再解釈であり再構築です。2025.10.15

追記  3時間前にこれを書いたのだけど、ノリが恥ずかしすぎて公開したくなくなった(勿体ないので更新するが公開したくないし読まないでほしい)。

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